2017-01-27 第193回国会 衆議院 予算委員会 第3号
指摘があったのに対して、国交省は二十三年の八月に大畠大臣、御自分のときですからあれですけれども、大臣が前田大臣にかわられた二十三年の十一月も、いや、これは白だといって封印をしました。 その後、監視委員会が動き出した後、二十五年、自公政権にもう一回戻った後、ここにちょっと太田大臣の名前がありますけれども、監視委員会が、これはやはり白ではなくて違反でしょうということで取っつかまえた。
指摘があったのに対して、国交省は二十三年の八月に大畠大臣、御自分のときですからあれですけれども、大臣が前田大臣にかわられた二十三年の十一月も、いや、これは白だといって封印をしました。 その後、監視委員会が動き出した後、二十五年、自公政権にもう一回戻った後、ここにちょっと太田大臣の名前がありますけれども、監視委員会が、これはやはり白ではなくて違反でしょうということで取っつかまえた。
これに対して、当時、大畠大臣は、整理解雇がベテランのパイロットやベテランの整備士にも及んでいて、安全性をどうやって担保できるか確認したいということで私の質問に答え、社長、会長にも話を伺うということで立入調査を実施しました。
○太田国務大臣 平成二十三年五月十三日の国土交通委員会におきまして、当時の大畠大臣が、日本航空に対する立入検査の結果として、次のとおり報告したというふうに承知をしています。 同社において安全上のトラブルに増加傾向はないこと。個別のトラブルについては、原因分析や評価、再発防止策の徹底等の対応がとられていること。
そして、その震災が起こった当日の夜、十時三十分、二十二時三十分には本省とのテレビ会議で徳山局長からの状況報告があり、大畠大臣より、とにかく人命救助を第一に、局長は政府代表のつもりで全部やってほしいと。そして、その一時間後には、局長からの指示で、啓開によって道をあける、徹夜でその準備をしてほしい、あすからが勝負だ、こういう震災当日のことが書かれております。
初めて行ったのが震災から二カ月弱の時期でして、大畠大臣もよく御存じだと思いますが、当時は、気仙沼は水産加工で有名な町ですので、その水産加工でストックされていた魚が全部流されて、その魚が全部腐ってすごいにおい、すさまじい腐臭でマスクがないと息もできないような状況でしたし、今回改めて行かせていただいても、やはり当時から考えると、非常に瓦れきも片づけられたり、整然となってきたなという思いを私もいたしました
大畠大臣のころに、三月十一日以降、四月になりましたら、仮設住宅というのがやっとつくられ始めたときに、相馬市を初めとして、集会所は仮設でできないかというようなことがありまして、仮設の中に集会所をつくるということを大臣のもとでやっていただいたりということがありました。
そこで、私は、この統合のときにも当時の大畠大臣に質問しましたけれども、結果的にはどうかと言われますと、御指摘のような側面があったと答弁したことを思い出します。それが、今の大臣でいいますと、えらい万々歳みたいな話をしていますけれども、そうはならぬということを言っておきたいと思うんです。
命を守る、リダンダンシーの確保、こうしたことが実は大畠大臣のときに、真っ先に東北整備局が走って、くしの歯作戦、これもリダンダンシー、こっちが遮断されたら東西の道路で行くというような安全保障、常に、本当の意味での人間の安全保障という意味で道路のネットワークがある、こういう観点を持っていかなくてはならない、私はこう思っています。
例えば、物流の観点、先ほども議論になっていました災害対策の観点からしますと、原発事故が起こったときに、あれは通称キリンというのでしたか、コンクリートの打設車が福島に入られるときに、一体どこの道が通れるんだろうか、どこで曲がれるんだろうかということに、随分、大畠大臣を初め国土交通省の皆さんも苦労され、時間がかかったということもお聞きをいたしました。
それで、先ほどのお話からの引用で恐縮なんですが、太田大臣は現場に行くことが大事だということをおっしゃってくださいますし、大畠大臣も随分入ってくださっていたと思います。
○太田国務大臣 大畠大臣のときに三・一一があり、直ちに現場、東北整備局に全て委ねて、号令を発したがゆえに、東北整備局が道路の啓開をし、そして、闇屋のおやじと思ってくれということで、何から何まで、トイレから棺おけに至るまで、女性にとって大事なものであるとか、全部、国土交通省ということを超えて、全面的にやることをやれという指示をいただいてということは、今も現場を歩くと私はよく聞いて、本にも紹介されておりますけれども
見させていただいて、大畠大臣のもとで、こんな立派なものをつくっていただいて、私は、国土交通省というものがどう動いたか、そして、そこの教訓というのが物すごく貴重だというふうに思っています。
それは、大畠先生、国土交通大臣のときに、この間、私は感動したんですが、代表質問に立たれて、東北地方整備局がいかに大震災の後に、くしの歯作戦ということで啓開作業をして、そしてあらゆることを、闇屋と思ってください、こう言われて、大畠大臣は、思い切って現場でやれ、全部任せるということを言った中に、自衛隊やあるいは警察、消防、米軍、こういうものとともに、現場で一番頑張り抜いて、いち早く啓開作業をして切り開いたという
三・一一の後、大畠大臣の時代だったですが、四月十三日にあそこが開港して、私は、うれしさもあるし、現地に早くということもありましたから、一番機に乗って仙台空港におりたんです。 その後ずっと回ったんですが、いかに仙台空港が復興ということで大事かということもあるし、そこでおりたときに旗を立てて迎えてくれた人、その後、そこの仕事に携わった建設業者等の話も聞きました。
しかも、二〇一一年、大畠大臣は、当時の日航社長を国交省に呼び、人員削減で本来の保安業務に支障が出ていないかを確認するように求め、絶対安全という原点を忘れないようにしてほしいというふうに要請したことを覚えておいでですか。そのことはそのとおりやられていると自負されますか。
私はこの問題について指摘をしたわけですが、実は先ほど、大畠大臣が指導を行ったという話をしました。当時の国交省の立入検査では、各職員の労務内容の変化に起因すると考えられるトラブルも発生しているという指摘もしているんですよね。つまり、今の労務対策がこの事態をつくっているという国交省の立入検査の報告なんですね。
○大西参考人 大畠大臣から調査を指示されまして、我々は当時、日本航空の安全の状態がどういう状況にあるかということをレポートさせていただきました。その際に、我々として、安全運航を堅持できていく、このようにお答えをさせていただき、ただ、安全は、先ほども申しましたけれども、そのとき、そのとき、そのとき、これをしっかり確認していくということが必要だと思っています。
当時の大畠大臣からも、公共事業は国民の暮らしになくてはならないものであり、必要な公共事業は積極的に整備をしていくという、こんな実は御答弁をいただいております。 その答弁を踏まえまして、資料二を御覧ください。この記事は、地元の橋なんです。これ、原田橋といいまして、浜松市の管理の橋なんですけれども、これ、老朽化によるケーブルの不具合が発見をされまして通行止めになったという記事です。
一つは三陸道、大畠大臣が明言しました海を渡る道路ということが、計画どおり間違いないかということ。しかも、財務大臣は、五年でやるということをわざわざ地元でお話しされました。これが間違いないかということ。それから二点目は、前回質問した後に、この造船団地、内部でいろいろな検討をして、もう協議会を持たれるというふうに聞いております。
言っておくと、大畠大臣は当時、日航の社長を国交省に呼んで、人員削減で本来の保安業務に支障が出ていないかを確認するように求めているんですね。そして、絶対安全という原点を忘れないようにしてほしいという要請をしたんです。そして、私どもの質問に応えて行った当時の国交省の立入検査ではどういうことを言っているか。
○羽田国務大臣 東日本大震災、また、昨日もそうでありましたけれども、全国の地方整備局が、発災直後から、当時の大畠大臣の統一的な指揮命令のもと、二十四時間体制で対応させていただいたところでございます。
それに端を発して、日本のこの領海警備に関する法体制というのが非常に未整備であるということで、私も何度かこの委員会で、当時は馬淵国土交通大臣のときから質問させていただき、そして大畠大臣、そして前田大臣という形の中でこの法案が国会へ提出されたということは大変大きな前進だと思っております。
その際、当時の大畠大臣から、大変大事なことだと思うので、社会資本整備計画の見直しの中に入れていきたいと、こういう御答弁をそのとき、三月いただきましたけれども、この十一月二日に中間取りまとめを見ましたら、津波というのは入っていますけれども、液状化はやっぱりまだきちっと入っていなかったということがあります。
コンクリート殻とかは防潮林のまさに埋め戻し材に使いたいんだということで早くから国交省に提案をして、当時の大畠大臣からも前向きな回答をいただいているということであります。
実は、昨年の通常国会、この委員会で、私は、大畠大臣の所信に対する質疑で同じようにこの場に立たせていただきました。三月九日でございました。
○前田国務大臣 山本公一委員の今のお話、その九日のお話を聞きながら、当時の大畠大臣が当委員会等の議論の中でいろいろと御教示をいただきながら十一日を迎えていたんだなということを想像していたわけでございます。
前の質問でも大畠大臣に確認をさせていただきました。今回、三陸縦貫自動車道、これが大変有効な機能だということで、全線着工を決断していただきました。私ども大変感謝をいたします。ぜひ、このめど、ことしだけじゃない、来年も再来年も、これは時間がかかります、どのぐらいのめどでこの全線開通が実行されるのか、そのことについて確認したいと思います。
○小野寺分科員 前田大臣は大変お詳しいので再度大臣からお伺いしたいんですが、前回の質問で、大畠大臣は記者会見で、十年をめどというお話をされました。そのめどについて、変わっていないのか、あるいはもっと早くなりそうなのか、大臣からお伺いしたいと思います。
○前田国務大臣 たしか、小野寺委員の質問、復興特別委員会だったですか、何かお答えした記憶があるんですが、十年というのはもう大畠大臣が言われたことでございまして、できればそれを前倒しして、もう少し何とか早くというふうにお答えしたつもりです。要するに、つなげにゃいかぬ、早くつなぎますというお答えをしたつもりでございますが、その線で、とにかく大畠大臣の十年を少しでも縮めるようにいたします。
その後また大畠大臣になって、そういう形で進めていく。その中で、有識者会議というのを前原大臣がつくっていただいて、前原大臣のもとで有識者会議が議論をし、そしてその中で、幹事会、要するに利根水系の方々を全部集めて議論をずっとやってきたんです。その最終的な結論として、いろいろなコスト、環境、そしていろいろな要素を含めたときに、これは進めるべきだな、こういうことになったわけであります。
ですから、当初、私、復興支援本部に入ったときも、まずは大事なことは道路の復旧、それから港湾、特に港湾の場合はもう物流の拠点でありますから、これが大事だということで、この計画の策定を急いだらどうでしょうかということで当時の大畠大臣に申し上げましたよ。大畠大臣もそのとおりだということで、港湾については、仙台港の一部を除いて二年間で大体機能を復旧させるという計画になって、今その方向で進んでいます。
そのことに関しては、大畠大臣の三・一一の結果を踏まえての反省の中からそういう御答弁もあったかなと思います。私も理念としては、今までのコンクリートというと何か人間生活からはちょっと離れた巨大なというようなイメージを象徴させていて、そして生活が第一という方を人にという言い方をしたんだろうと思うんですね。
この東日本大震災を受けまして、今年の、平成二十三年五月二十六日、参議院の国土交通委員会の質疑の中で、岡田直樹議員、ただいま参議院の国土交通委員会の委員長を務められておりますけれども、の質問に対して、大畠大臣がこう答えられております。今回の大震災の中ではコンクリートが人の命を救ったというところがたくさん見られます、このように述べられました。 そこで、前田大臣、お伺いいたします。